自然体の教育

近代の教育思想の幕開け・先駆者となり、今ではその著書が古典となった教育思想家・J.J.ルソーは、「理想的な教育者であるためには、ごくごく素朴・純朴・平均的な親であればよい。」と言っています。
この言葉の真意を考えてみると、「親として子へのゆったり・ほのぼのとした愛情を基本として、変に高望みしたり世間体にこだわったりして親のエゴを子どもに押しつけたりせず、子に対しては、いろいろな年齢・地域・タイプの人たちと友好的につきあいながら、何らかの社会の役割を担っていくことを願ってできる限りの愛情込めて接していけばよい」「教育には我が子との率直・おおらかな心の通じ合いを一番大切にすればよい」ということだと私は受けとめています。
これまで、子どもたちのからだ・こころ・ことばの健やかな発達のために心がけることが望ましい諸点について縷々(るる)述べてきましたが、過度の配慮により子どもたちに不要な抑圧(プレツシヤー)・不安感を与えてしまうことのデメリットにも気をつけましょう。

親の権威とは?

「逆説の子育て 威張(いば)り、威厳(いげん)ではない」(岐阜新聞2014年10月3日)
昔に比べると、今は、やさしいお父さんが増えてきたように思いますが、これも、男女平等参画という時代の移りゆきの一つの反映でもあるのでしょう。こんな中、親の権威・威厳とは何か?どう子どもに表現していったら良いのか?といったことについていろいろと考えてみる必要があるように思います。この新聞記事では、次のように述べています。「お金を稼いでいる人が偉い、などというのは浅はかな価値観です。」「そもそも「厳しさ」とは、見せびらかすためにあるものではなく、自分自身を律するためにあるものだと思います。本当の「威厳」とは、「人間として正しいことができる強さ」や「正しいことを自分自身に課す厳しさ」からにじみ出るものです。例えば、間違ったときには子どもに対しても真摯(しんし)に謝(あやま)ることができる、成すべき事を成すまで言い訳しない、など。大人のそういう正しさ・気高さにこそ、子どもは威厳を感じるのだと思います。そして、自らも威厳ある人間に育っていくのではないでしょうか。」(教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏)

まさに、「子は親の背中を見て育つ」のことわざ通りですね。

教育の名言「かあさんって、ぼくがうれしいと、いつもうれしいって言うんだね」

「子狐(こぎつね)を亡くし憔悴(しようすい)する母狐(ははぎつね)。通りかかった電話ボックスで少年が、遠くで入院している母親に今日あったことを嬉(うれ)しそうに伝えていた。ある夜、電話が突然使用中止となり、母狐は新しい電話ボックスに化けた。内で響く少年の弾んだ声。それが母親の哀(かな)しみを溶かせることを身をもって知り、母狐の心に再び灯(あか)りが点(とも)る。絵本『きつねのでんわボックス』(戸田和代著・たかすかすみ絵)から。」(朝日新聞2019年1月19日「折々のことば」鷲田清一筆)

教育講話などではよく「親子って何だろう?」という問いが出されますが、やはりこの絵本の語るように、一番心を同じくする人と言っていいのでしょうね。

<昭和51年 9.12豪雨の記録・記憶>その2

当時うちの本宅には二階がなかったので、幼稚園舎二階の一室で寝泊まりし、(1週間ほど)隣のフードセンターで買いだめしたカップラーメンばかり食べていました。
携帯電話もインターネットもない時代で、今のようにフットワークよく取材・報道がなされるということがない時期で、ラジオくらいしか情報手段はありません。テレビも、寝泊りする部屋に運んで設置する余裕もなく、ほとんど見た覚えはないです。一通り対策を打った後は、水位が上がるのが止まってからはひまでした。父と古木材・釘を使っていかだを作って浮かばせて、町内を一周したりしました。そのときあそか苑の辺りですべって落ちましたが、水が首までありました。(そのころすでに私は身長160センチほどあったので、水深130センチくらいだと思います。) 汚い話しですが、トイレも全て外へたれながし状態だったので、もう少しこの状態が続いたら、9月上旬の話なので、何らかの中毒・感染症が流行(はや)ったかもしれません。いつ水が引くか分からない怖い思いがあったのでしょう、私はある夜、寝ている布団まで水が来た夢を見ました。
そんな中、9月12日、長良川・墨俣付近の堤防が決壊したことをきっかけとして、それまで黒野地区にどっぷりとたまっていた大水が、みるみる一気に引いていきました。その意味で、9.12とは、視点を変えれば、黒野が救われた日である、と見ることもできます。
水が引いた後は、水につかった部屋を水道ホースをのばして洗って家族や関係者総出で掃除しました。床下も父がたたみ下の床板を外し、地面に石灰などを巻いて消毒やシロアリ対策などをしていたようです。通っていた中学で、先生から調査・質問されたり、学校から見舞金のようなものがなにがしかあったと記憶していますが、行政からの災害復旧支援金などの確かなことは子どもだったので全くわかりません。
私の記憶していることはだいたい以上です。
あの災害以来、堤防もかなり強化されて、あのような災害はめったに起こらないとは思いますが、絶対に起こらないとは言えないと思います。台風の時季には常に台風の動きに注視し早めに対策をとることが大切だと思います。

<今後の対策・心がけについて>
今考えられることは、以下のことです。
〇普段から、天気予報をまめに見る・確認する。(テレビ・新聞・ネットなど)(前例で実証されて分かったが、黒野地区内を流れる河川の水は、岐阜市奥や、伊自良村あたりへ降った雨がもとなので、そういった上流の地区の降水量を特にチェックしておく。)
〇地域のハザードマップなどをチェックし、災害可能性をあらかじめ探り、知っておく。
〇地域(町内)放送も注意して聞く。
〇緊急持ち出し袋(くつ・タオル・ティッシュ・薬・雨具など)を用意しておく。
〇貴重品や水につかっては台無しになるもの(ふとん・畳など)などは、優先性の高いものから、机や棚の上か、2階(以上)など、できるだけ高い位置に保管する。
〇避難の心がけ・決断を早めにする。

参考資料:「黒野広報」1976年10月1日版 黒野広報会連合会発行

<昭和51年 9.12豪雨の記録・記憶>その1

これまで、教育・保育のいろいろな課題・問題を取り上げて、専門的な知識・情報を紹介し、また私なりの意見も述べてきましたが、今回は、そうしたテーマからは少し離れて、一般的な社会課題に触れたいと思います。
梅雨や台風の季節になり、全国あちこちで「線状降水帯」による水害が起きています。岐阜市黒野近隣でも、過去(昭和51年)に「9.12豪雨」と呼ばれる大水害があり、私も身をもって経験しました。その時の状況を皆さんにも知っていただき、できる限り「自分で自分の身の安全を守る」ために役立てていただきたいと思います。

昭和51年のこの災害の時、私は中学3年生でした。
8月下旬から、台風の動きが停滞し、大雨が続きました。後からの情報ですが、このあたりの年間総雨量が1900ミリのところ、この数日でその半分ほどの900ミリの降雨があったそうです。
9月上旬、私は柳津の聖徳学園附属中学まで自転車で通っていましたが、旧河渡(こうど)橋(ばし)を渡るとき、すぐ下を茶色の濁流が流れ、自転車で走りながらも橋が壊れそうなくらいで怖かった覚えがあります。
だんだん水が出始め、学校へも行けなくなり、交通網も遮断され、次第に水が増えていきました。後からの噂では、岩利か石谷あたりの伊自良川の堤防が切れて水が出たらしいと聞きました。黒野校区は南半分全部(南町・折立全般)浸水しました。旧十六銀行黒野支店のあたり(仲町)が「岸」でした。
当時のわが家や光順寺本堂は、床板に水がぎりぎりつくくらい浸水しました。
わが家は当時二階がなかったので、父と私とで、母屋の一階と本堂の畳(本堂だけで70畳)や濡れてはいけないものを机などの少しでも高いところに上げ、三日三晩くらいろくに寝ずに作業し、ふらふらになりました。自家用車・幼稚園バスは父が城田寺の山ぎわの知り合いの駐車場(自動車修理屋さん・「豊和(ほうわ)オート」)に避難させたらしいです。
黒野あそか苑前(旧黒野別院駐車場)で、最高水深1.2mくらいありました。
柿が瀬に水深2mを越えたことを示す標識があります。(水深226㎝「北柿が瀬北交差点」) 南町や折立は一階床上2mくらいの浸水状態なので、多くの家の(泥)壁は水で溶けて落ちました。今でも古い家は柱にその跡が残っています。電話も全く不通でした。(電話線が床下を通っており、水についたから) 車も一切行き来しないので、文字通り水を打ったような静けさが続きました。

PS:後掲の写真は、旧黒野別院(現黒野あそか苑)駐車場・幼稚園グランドで私・姉が映っていますが、父が撮影したものです。まだ30㎝くらいしか水が出ていませんが、この後1mくらいまで上がりました。