家庭にユーモアと笑いを

まずは下の二つの詩をお読み下さい。

「若い?」 S・N

私がお母さんのあとをおっていると、
髪の毛の色がハデだから、
うしろから見ると、
少しだけ若く見えました。
でも前から見ると、
どこにでもいるようなおばさんでした。

「こたつの犯人」 M・M

今日のお母さんが こたつのスイッチを見て、
「こたつ、つけっぱなしだれ?」とおこっていた。
弟とぼくはどっちも、「ちがう!」と言った。
その時パパが、「あ~、オレオレ。」と言った。
いきなりお母さんは、「あっ、ほんとー。」
とやさしくなってスイッチを消した。
どうしてパパにはやさしいの?

この詩は、最近新聞やテレビでも話題になっている増田修治氏(元小学校教諭で現在白梅学園大学准教授)が、クラスで子どもたちに詩を書かせて、皆で評論する授業の中で出てきたとてもユーモラスな多くの詩の中の二編です。(『子どもの自尊心と家族・親と子のゆっくりライフ』汐見稔幸著・金子書房2009』) こんな詩がどんどん出てきて皆で味わい楽しみ合うためには、クラス内でかなり上質の信頼関係が築かれていることが必要なのだろうと思われますが、家族内でも目標としたい話しですよね。

《子どものことばはおもしろい》

当園での子どもたちのことばです。職員室前の廊下で、年長児T君がY.君に「廊下を走ってはいけません! やり直し!」と言っているのを職員と一緒に聞いて、普段の指導の効果(?)てきめん!といった感じで、思わずお互いに苦笑いしてしまいました。
ある教育専門家が、「おじいさん・おばあさんのごく普段の口癖さえ、そのままそっくり子どものことばの教育になります。」と述べている文を読んだことがありますが、おしゃまなタイプの年少の女の子が「幼稚園で「うちのおじいさんが、「会社でもう要(い)らん。」て言われたで、今は家におるよ。」と言ったよ。」という職員の話を聞いて、絶句したり爆笑したりしたこともあります。私たちはこうした子どもたちのことばをおおらかに楽しんでいますが、他面、子どもたちは毎日乾いたスポンジが水を吸い込むように周りの大人やテレビのことばを(良いことばも悪いことばも)そのまま覚えていくのだなあ、と多少恐ろしくも感じています。

「しいたけさようなら!」 (ンッ!!??)
子どもたちの言葉遊びも発展しています。ある年長児の歌う「いちご、にんじん、さんま、しいたけ・・・♫」という数え歌をある年少児がおぼえ、さらに「しいたけ」の語が気に入ったらしく、お別れのあいさつに「しいたけ・さようなら!」と子どもたちからユーモアたっぷりに呼びかけられました。子どもたちの柔軟で独創的な発想に学びたい思いです。もちろん、下品なことば・汚いことば・人を傷つけることばなどはたしなめなければなりませんが、日々新しいことばを覚え使い、自分の気持ちや思いつき・ひらめきを一生懸命自分のことばで表現しようとして柔軟に頭を働かせようとする子どもたちの姿は、おおらかに楽しみながら温かく見守りつきあってあげたいものですね。

<子どものことばのおもしろさ・ユーモア>

新聞紙上で、とっても心が温かくなる子どもの詩に出逢いました。まずはじっくりと読んでみてください。

お父さん 小学4年 江守慶介

お父さんは、朝早く会社へ出かけて、帰りもとてもおそい。
だから、休みの日以外は、ごはんもいっしょに食べられない。
月曜日から金曜日まで、お父さんに会わなかった時もある。
土曜日になってお父さんに会うと、何だかはずかしくて話ができない。
本当にたまにだけど、お父さんの体をマッサージしてあげた時は、
とてもいい気分になりました。
それは、「ありがとう、慶君。体のつかれがとんでいったよ」
と言ってくれたからです。
がんばって、お父さん。
(岐阜新聞2015.4.21)

いかがでしょうか? 素朴な内容ですが、とっても心が温まる良い詩だと思います。幼児たちには、まだこれほどの親を思いやることばを発することはできませんが、同じ心をいつも抱いていることと思います。紙上でこの詩を紹介されている増田修治さん(白梅学園大学教授)も「親も子も、どちらも同じように相手をいたわり合って生きているのです。」とおっしゃっています。

岐阜新聞2015年6月16日に載っていた子どもの詩には、たっぷりのユーモアとお兄ちゃんの思いやりが表現されていて、私は読んで思わずうなってしまいました。こんな子どもたちに育ってほしいと願う理想の心持ちだと思いました。じっくりと子どもたちと読んでみたいものですね。

ことばを毎日学びつつある子どもたちのことばは、言い間違い・勘違い覚え・冗談・新しいことばの一つ覚え・悪口・陰口など、実にさまざまで、中には修正したり、たしなめたりする必要のあるものも多いですが、大人が思いつかない発想で思わず快笑してしまうものもあります。ともに楽しみながら、ことばの面白さを見つけてやりとりしていきたいものですね。

直観力について

これまで、「学ぶ力」を育てるというテーマでいろいろと考えてきましたが、知識の多いことだけを良いことと評価する知識偏重の教育のあり方に疑問も感じ、子どもたちの自然な感性・疑問を大切にしたいと考えていました折り、『「直観力」の豊かな子どもは幸せだ~おおらかな人生のために大切なこと~』という本を見つけて読んでみました。(ソニア・チョケット著・PHP研究所刊2000年)この本の要点は、「親子ともに真の幸せな人生を歩むには、保育者自身が自己の直観力を信じ豊かに育むことが大切です。具体的方法としては、
①身辺を整理整頓しすっきり・シンプルにする。
②深呼吸し心を落ち着ける。
③自然の中を歩く。
④家族で夕食を食べる。
⑤忙しすぎないように生活設計をする。
⑥自己の内にある自分の制御(コントロール)を超えた大いなる声に気づき、心の耳で聞く。
といったことです。これにより子どもたちを個人として認め、関心を持って温かく見守り子どもに発言(権)を与え、環境に支えられ守られ導かれている自分を見いだしホッと安らかな気持ちになれることにより、偽り・見せかけでない真の自分を発見していける、ということでした。
キリスト教の影響がある考え方のようですが、たいへん貴重な考えのように思えます。子ども・保育者ともに直観力をはぐくんでいくためには、やはり環境設定の方にもなにがしかのノウハウがあるのですね。

 

「臨界期」の問題について

さまざまな教育論の中で、「臨界期(りんかいき)」という問題が話題になることが、しばしばあります。人間の子どもたちは、乳幼児期から学童期・思春期・ハイティーンに至るまで、母国語の読み書き・聞く・話す能力、計算能力、運動能力、音楽・絵画などの芸術能力など、さまざまな能力を身につけ発達させていきますが、それぞれの能力につき、生涯通用する・もしくはプロフェッショナルレベルの能力のためのしっかりとした基礎力を身につけるために最適な時期がある、と考える発達論上の考え方が「臨界期」という考え方です。
この問題について、最近の啓発書では、発達心理学者の池田清彦氏の著書『すこしの努力で「できる子」をつくる』(講談社文庫2006)という本で論じられています。池田清彦氏は、脳科学の成果をもとに、言語能力・スポーツ能力・音楽・将棋・囲碁・計算などの能力の臨界期を示しておられますが、いずれもやはり3才ころからの豊かな養育環境が重要・大切だと指摘されています。
昔から「三つ子の魂百まで」「鉄は熱いうちに打て」「矯めるなら若木のうち」などという諺もあり、人類は、幼児期に周囲の愛情につつまれて無理なく丁寧に上質の養育・教育を受けることの大切さを見抜いてきたようです。
今は、「くもん」などの知的教育施設・学習塾・タブレット学習・ダンススクール・サッカー・野球・水泳などの習いごとが大流行(おおはやり)で、どれに通わせようか保護者の方が迷うほどありますが、あくまで子どもが「やりたい!!」と興味を示してこそ効果が期待できるもので、保護者・教育者からの強制では、まったく効果がないこと・百害あって一利ないことを肝に銘じておく必要があるでしょう。
また、多くの子どもたちには、相当の個人差・多様性もあって、すべてのこどもたちが一様に同じような興味・発達・成長・成果を見せることもありませんから、その子その子の固有の良さ・得意なこと・好きなことを尊重していく姿勢も大切でしょう。
池田清彦氏は以上のようなことを考慮し、「他の子とあまり比較せず、温かい雰囲気の中で、子が好きになったことを褒めて伸ばそう。」という割とオーソドックスな考えで結論づけています。本欄でこれまでからだ・こころ・ことばの教育を展開してきた中で、幼児教育学者・津守真(つもりまこと)氏の「日々子どもが望むことに応え、配慮をもって関わることの大切さ」という言葉を紹介しましたが、相通ずることなのですね。
「臨界期」の問題は、教育学・発達学的にはとても重要で興味深い研究テーマでもありますが、一般の家庭であまりにこだわりすぎて神経質になって不安感をつのらせるデメリットの方が大きいとも思いますので、池田氏のように、ゆったり大らかにかまえていった方がよさそうですね。