<自己主張・個性・自己肯定感>

本欄の前2回で紹介・解説してきた汐見稔幸著『ほめない子育て』の第3章・第5章では、氏の全体のまとめ・結論的な主張として、これからの国際化(グローバル)社会で自己主張・個性を大切に育み展開していくことの重要さを述べています。

汐見氏は昭和22年生まれで、お母さま・お祖母さまがそれぞれ大正・明治生まれの影響でしょう、明治以来今日までの近代日本の劇的な変動により教育・保育の状況・環境もかなり変容してきてこのことが子どもの育ちに多くの影響を及ぼしてきている、という問題意識が氏の教育論の根底にあります。

前々回の本欄でもそうした教育事情の変化を、4点ほどにまとめて概観しましたが、戦後日本の高度経済成長以前の日本の子育て事情は、氏は「放し飼いの子育て」だったと観ています。今のように買ってきてすぐに食べられるお惣菜を売っているコンビニ・スーパーもないし、今では当たり前のような掃除機・洗濯機・炊飯器・湯沸かし器などの家電もなかった時代には、家事(買い物・料理・掃除・洗濯)・畑仕事・育児・近所づきあいなど、主婦にまかせられる執務で、一日14時間半働いたと言われています。そんな忙しい毎日では、7~8人兄弟姉妹が珍しくないという大勢の子どもと一緒にじっくり過ごす時間などありませんから、大勢の兄弟・近所の友だち同士で遊ばせたり、長子に乳幼児の子守をさせるなど、子どもたちの集団活動・生活・自治的社会が自然に発生し機能していました。

ですから、家庭では家長たるお父さん(またはお祖父さん)が、デーンと威厳をもってかまえていて、地域社会や家庭の道徳・価値観をみなに教育していたことから、子どもたちは少なからず窮屈な思いも持っていましたが、「お母さんやお父さんの前では「よい子」を演じてみせても、地域社会に出たときに自分らしくふるまい、息抜きをすることができたのです。親が知らないところで、隠れ家に隠れて冒険したり、いたずらしたりしながら友だちといっしょに思い切り自己主張することができたわけです。そうやって子どもなりに、うまくバランスをとっていたと考えられます。」(同書136ページ)

今日の「お母さん、お父さんも子どもを小さいうちからある枠にはめ込もうとするのではなく、なるべくのびのびと探索活動ができ、思う存分自己主張ができるような環境を与えてやることが大切なのです。」(同書138ページ)

確かに戦前は、旧憲法のもと、確固たる道徳的価値観が上(国家)から地域社会に強力に降りてくる上意(じょうい)下達(かたつ)社会ではありましたから、日本人の特徴的な性格として、「世間様に申し訳が立つように」生活し子どもを教育しようとする傾向がいまだに強く残っていますが、まったく逆に、ほんの300年くらいしか歴史がなく我が国の歴史はこれから自分たちが作るんだ、という気概からすべてが出発しているアメリカなどでは、「皆と同じように、横並びに」ではなく、皆とは違う自分だけの個性を持ち発揮していくことが最善とされるようです。

大勢の友人・知人や大人たちと交流すれば、人はみな一人として同じ人はなく、性格・好み・考え方・感じ方が大きく違うものである、と知るものです。ここから出発して、「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)の境地に達するのがこれからの国際(グローバル)化社会時代を生き生きとたくましく生き抜いていく哲学である、と氏は主張されるようです。

<父親の子育て参画について>

前回ご紹介した汐見稔幸氏の著書『ほめない子育て』には、「父親の子育て参画」という話題も述べられています。この問題について今回は考えてみましょう。

氏は、まずは昭和以来の父親の子育て参加事情について、ざっとふりかえっています。第二次世界大戦前の時代は、「家父長制度」の名残りで父親は、家庭(の近く)で仕事に専念して家計を支え、家庭の中ではどっしりと威厳をもって存在し、細かな子育て作業には基本的にかかわらず、ときどき子どもの進路決定などのおおまか・重要な課題にのみ有力な意見を言うだけであったようです。

そして終戦後は、復興期から高度経済成長期にかけて、男親は「企業戦士」としてガンガン働き、家事・子育てにはほとんど時間的にも精神的にもノータッチでよしとされていました。

しかし、昭和の末期ごろ(昭和60年ころ)から増えてきた子どものいじめ・不登校・自死といった社会問題の学術的な調査・分析が進んでいくと、そこには「父親の存在」がないことの気づき・指摘が出てきました。結婚家族内でも母親のみの今で言う「ワンオペ育児」の状態が多く、母親一人が悩み・苦労しながら子育てしている姿が浮き彫りになってきたのです。

そのころから、汐見氏らが先陣を切って、「父親の子育て参画」を訴えて来られました。汐見氏は、多くの著書やテレビ子育て番組や『父子手帳』という本を作成したりして、父親もできる範囲で大いに子育てに参加した方が、子どもは幸せに・健全に育っていくのだ、という教育論を展開していきました。幼少時から子どもは、お母さんはもちろんのこと、お父さんやお祖父さんお祖母さんその他さまざま多様な人格に愛され関りを持った方が、幅広い人格を形成していくのだ、と言うのです。

また汐見氏は、「父性文化と母性文化をバランスよく展開して!」ということをおっしゃいます。「父性文化」とは、木登り・石ころ集めコレクション・「高い高い!」遊びといったダイナミック・ワイルドな刺激・冒険・挑戦を子育てに盛り込んだものであり、これに対し「母性文化」は、転んだり友だちとぶつかったりして痛い思いをしたとき、優しく包み込み共感し安らかに慰めてくれる心性・保育文化のことです。この両者がバランスよく混ざったり交互に繰り返されたりして多様な育児環境・生活が展開されることが乳幼児の成育にはとても大切である、と訴えられます。(前掲書・第4章 お父さんの育児参加・141~176頁)

お父さんお母さんも、夫婦とは言えもともと別人格ですから、考え方・感じ方・好み・興味関心には少なからず違いがあり、子どもへのまなざし・見方も違うし、保育・教育観にも違いがあるものです。その両者が好意的・協力的に話し合いを重ねて、両者の良い所を生かしながら子どもに良い影響を与えていく、というのが望ましい保育・家庭教育なのでしょう。

最後に私なりの意見・知識もつけ加えますと、「ベテランの小学校の先生は、子どもを見たり少しつき合うだけで、その子の家庭(の近く)に祖父母がいるかどうかすぐわかる」という話を聞きました。それほど普段の家庭生活が子どもに与える影響は大きいということなのでしょうね。

<汐見稔幸氏著『ほめない子育て』(1997・EIKOU社刊)について>

幼児教育研究の第一人者である汐見稔幸氏が、一見「んん!??」と思う題名の本を、20数年ほど前ですが出していらっしゃいます。子どもの良いところを見つけほめて育てるのが誰しも良い子育てだろうと思うでしょうし、本欄でも1年半ほど前に「しかるとほめる」のテーマについて縷々述べていますが、汐見氏は逆説的な表現をしています。この本をじっくり読んで氏の言いたいことの真意・本意をさぐって私なりにまとめてみますと、現代日本の子育て事情の特徴として、

①一夫婦・家庭での兄弟・姉妹の数が少なくなり、一人っ子か二人兄弟が多い。

②高度経済成長による都市化を背景に、野山・原っぱ・空き地が身近に見当たらなくなり、子どもの自由奔放な冒険心を満たす安全・自然な遊び場がなくなっていった。

③教育産業の発達により、学習塾・スポーツクラブ(野球・サッカー・水泳・ダンススクール・スケートなど)・音楽教室(オルガン・ピアノ・エレクトーン・ヴァイオリンなど)などの習い事の機会が増えた。

④「隣は何をする人ぞ」の言い回しのように、地域社会でのゆるやかな交わりが衰退し、仲の良い友だちと放課後は毎日のように遊んだり地域の大人にいたずらを叱られたり、といった地域の教育機能が衰えた。

こうした中で、親の構想・夢が先走りして、親の思うレールの上で子どもを走らせるために、過剰に「ほめる」「モデルとなる子をほめる」・やってほしくない行為を「しかる」ことが増えてきている、ということに警鐘を鳴らしているようです。

汐見氏のことばとしては、

「私はほめるということは、子どもの行為に共感するという程度ならよいと思いますが、不必要にほめたり、大げさにほめたりすることを続けていくと逆効果になると考えています。つめり、ほめ過ぎる子育ては、子どもの自己肯定感を逆に弱めてしまうと思うのです。それは端的にいうと、子どもを人の評価に敏感な子どもにしてしまうからです。」(上掲書・26~27ページ)

「自分が好きなことを一生懸命やっていることをお母さんが認めてくれているという関係が子どもを意欲的にしていくのです。子どもがやっていることを、遠くから温かく見守り、うなずき、認めて、失敗はフォローする。この姿勢が、親や保育者に必要なのだと思うのです。」(上掲書・44ページ)

保育者・保護者は、子どもへの愛情や責任感・メンツも高じてついつい子どもをレールに乗せて管理・コントロールしがちですが、これは百害あるということですね。子どもを決して上から目線ではなく、自分とは別人格として並行目線で見守り支援してあげることが大切なのですね。

<歩きスマホは極力やめましょう>

商店街や通勤で歩くときに、ついついスマホのメール・ラインを操作したり、魅力ある画像やゲームに見入ってしまったりしがちな方が多いようですが、他の歩行者・自転車や電柱・看板・立ち木等にぶつかってしまったりして、とても危険です。

その他にも、歩きながらスマホを操作すると、脳の情報処理能力が低下し歩行のリズムが乱れることを、京都大学の医工情報学チーム(野村泰伸教授)が実験で証明しました。

実験では、44人の健康な男女(平均22.6才)全員に、ルームランナー上で、

①何も持たずに歩く

②画面が移っていないスマホを見つめながら歩く

③スマホでゲームをしながら歩く

の3種類をやってもらいました。

通常私たちは歩くとき、1歩のストライドは連続して同じ歩幅を繰り返し、長く歩き続けるとこのストライドが少しずつ長くなったり短くなったりを長い周期で繰り返す、という「ゆらぎ」があるそうですが、スマホに夢中になりながら歩く(上の③)とこの「ゆらぎ」がなくなり、歩行の安定性が明らかに低下したそうです。これは、スマホ操作の方に脳の情報処理リソース(資源)が割かれることが原因と考えられる、という報告です。(岐阜新聞2025年・太田久史氏筆)

スマホがなくてはならない今の時代ではありますが、街を歩いたり野山を歩いたりする時くらいはスマホをしまって、緑や花・遠くの山・空・星・日の出・日の入りなどを眺めて、目を休ませたり喜ばせたりしてみてはいかがでしょう.

昔から多くの高名な哲学者は、歩きながら考える(哲学する)ことを習慣としていました。自分の中にいくつもの深い問いをたくわえつつ、開放的な自然の中で懐深い環境に包まれ自然の風に吹かれながら、思索を深めたようですね。

 

<「フェイク」にだまされないために>

ロシア・ウクライナ戦争が始まったとき、世界平和を守るべき最高の一機関である国連の常任理事会で、ウクライナが攻撃されている映像を出席者全員が観て、それに対する意見を求められたロシア代表委員が、即座に「それはフェイクだ。」とあっさり一刀両断に断定し、こんな重要な議論がそれ以上進まなくなったのをテレビ報道で観て、私は愕然としました。そして「こんなことがまかり通っていくと、私たちはどんな公共の動画像を信じれば良いのだろうか?」と不安になりました。

IT機器・生成AIの爆発的な進化により、ネット上ではフェイクfake(偽造品・にせ物)情報・画像・製品があふれるようになってきました。私たち一般市民でも、やり方さえ学べば、お茶の間でスマホやパソコンで既存の画像を修正・加工・創作できるようです。

ある会社のホームページ・商品注文のページ・サイトでも、本物そっくりの偽サイトが掲載されていて、商品を注文し料金を振り込んだが、品物がいつまでたっても送られてこない、という事件がしばしばある、と聞きます。

こうした最近の事象に対し、新聞社やテレビ会社は、「ファクトチェック」(事実(かどうかの)検査)を始めているようです。(朝日新聞2025年5月1日・2日・6月13日・15日記事) 今後は、より精巧なチェック機能が作られていくことを期待したいですが、私たち一般市民はどんなことに気をつけていけば良いでしょうか。越前功(えちぜんいさお)氏(国立情報学研究所教授)は、このようにアドバイスされています。「SNSをうのみにしないことです。利用者ひとり一人がリテラシー(literacy読み書き能力)を高めていくしかない。大手プラットフォーマー(ネット上でサービスを提供する事業者)は偽情報の削除などに消極的です。SNSは、人々の興味や関心を奪い合うアテンションエコノミー(人々の注目そのものが経済的価値を持つという考え方)の強い影響下にあると理解して利用しなければいけません。」(朝日新聞2025年6月5日「生成AIと歴史・交論」)

要は、ネット内が、ぱっと観て面白いか、という再生回数・「いいね!」の数の多さを競うだけの世界になっていて、中味が正当か・真実か、という問題は二の次になっている、ということなのですね。

この画像、フェイク? リアル?

(朝日新聞2025年6月15日・GLOBE・小宮山亮磨氏)