「家族って何?」

まずは、以下の図絵作品をご覧ください。

 

 

 

 

これらは、2007年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」受賞作品です。(朝日新聞2007年10月26日)

どの作品もみんなとてもよくできていて、なるほどな~~と味わい深く鑑賞したり感心したりできますよね。

家族についての常識的な意味づけ・定義づけとしては、「最も親しい人たちの共同生活の最小単位」と言っていいと思いますが、最も親愛なるがゆえに、年長者(成人)が幼き者たち(未成年者)を養育・教育する責任を強く感じすぎるあまり、ついつい年長者側の考える理想・夢・希望のレールを敷き幼き者たちを走らせてしまいがちですが、家族の一員と言えども、それぞれが個別の独立した生身の人間・人格ですから、好み・感情・希望・知識・経験・意思などは皆ちがうものです。そのことによって、ときどきはお互い志向することが違ってぶつかりトラブル・口論になることもあるでしょう。できるかぎり密にコミュニケーションをとって、皆が納得する道を探りたいものです。

安心できる居場所としての家族は、大人にとっても子どもにとってもとても大切なもので、これがあってこそ自身を持って外へ出て行って自分の力を存分に発揮できる、とも言えるでしょう。

「こんな母親の一言が子どものヤル気を伸ばす」

「子どものヤル気の芽を育て、持てる才能を充分に発揮させたいと、どの母親も念じています。

ヤル気があれば脳の働きもよくなるのは誰でも体験していることです。才能をひきだし成果をあげるのもヤル気の問題なのです。頭が良い悪いの生まれつき差は一般的にはそれほどないのです。頭の使い方次第なのです。

だから誰でもヤル気さえあれば大成果をあげ得る可能性を充分に持っているのです。母親の一言で二倍以上の人生がおくれるのです。」(前掲書・139ページ)

 

この文章は、本稿のタイトルそのままの「第五章」(前掲書)のとびらに書いてある文章です。この文章を読んでかなり似た主張をしている自然科学の世界的権威者の最近の著書の文章を思い出しました。その権威者とは、遺伝子学者・村上和雄氏(1936年~2021年)です。氏の最後の遺稿となった『コロナの暗号』(2021年・幻冬舎)の中では、

「いままで脳の働きは先天的に決められていると考えられていましたが、そうではありません。眠っている遺伝子をONにすれば誰でも天才なのです。なぜなら、人間のゲノムは天才も凡才も99.5%以上は同じにできているからです。しかも環境変化心の持ち方でも遺伝子ONは可能です。」「私は研究を行う過程で生命設計図の精緻さに心打たれ、DNAに暗号を書き込んだ何らかの『存在』を感じ、それをサムシング・グレート(大自然の大いなる力)と名づけました。」

村上氏の言う「サムシング・グレートSomething Great」とは、仏教やキリスト教で言う絶対者・超越者(仏・神)が強く発している「利他主義・思いやり・つつしみ・協力」といった心であり、そういった目に見えにくいし手でさわったりつかんだりしにくいが必ず誰もが聞いたり実践したり実践されたり経験することの可能な心性(メンタリティ)のことであります。現代の最先端の科学者も、こういうものを想定しないと理論的に説明できない科学現象がたくさんある、と言われるのです。大人・子どもを問わず、私たちの遺伝子スイッチをONにして最大限に才能を開花させていくには、サムシング・グレートを大切にしていけばいい、ということになるのです。

 

子どもへの具体的な母親のことばとして、宇佐美氏は以下のようなことばを挙げています。

  • 「よくやるのね。すごいわ」
  • 「よく知ってるのね。お母さんにまた教えてよ」
  • 「よい子ね。お母さん幸せよ」
  • 「人生は長いのだから気にしなくていいのよ。あせらず頑張りましょうね」
  • 「不得意なことを気にしない。得意なものを伸ばそうね」
  • 「あなたならできそうよ。この前だってやれたのだから」(前掲書・141~165ページ)

 

みな、前向き・上向き・ポジティブシンキングのことばがけですね。こういったことばがけが、子どもたちを劇的に変える「環境変化」なんですね。

<社会性 ~友だちと仲よく遊べるようにする~>

「昔から「よく学び、よく遊べ」と言われています。大人の社会を見渡しても、遊びを仲間と楽しめる人間は仕事も能率よくこなせるものです。忙しいを連発して、にがり切った青白い顔をしている人間は、たいして仕事もできないものです。ストレスはたまり、仲間意識がうすく、自己主張が強すぎ、協調性もなく、情緒不安定で感性も少ない。これでは創造的で能率のよい仕事ができるはずがないのです。人間は社会的な動物ですから孤立した状態でうまく生きられるはずがありません。」

「友だちと仲よく遊ぶことは体力と運動能力を高めるばかりでなく、社会性をも育てるのです。

社会性があることは、大人になって仕事をするとき大いに役立つのです。これからの時代は、どう協調し、協力を得ながら成果をあげていくかが重要な生き方のポイントの一つになるからです。職場でもチームワークを組んで取り組む機会がどんどん増えていて、そんな中では社会性豊かな人間でなくては成果が上がりにくいのです。」(宇佐美覚了著・前掲書・87~88ページ)

私はこの部分を読んで、十分に賛同するとともに、これまでの人生経験の中で出会った人物で、学業や仕事の成績を抜群に上げていながら、そのことを鼻にかけて露骨に自慢話しばかりする人物や、天狗になってエラぶる人物のことを思い出しました。そういった人物は、高年になって仕事が一段落して退職などすると、本当に人間性の豊かさを頼りに寄って来る友人は全くいなくて(いわゆる「人望がない」)、私生活では寂しい老後生活を送っているものです。

ぜひとも幼少時・若い時期から、少ないが真の友人と思えて末永くつき合える仲間との、適切な距離感・学び合い・尊敬し合いといったことを、経験させていきたいですよね。

<手足を積極的に使うようにさせる>

「体や脳の機能を高めるために、各種のスポーツ教室、音楽教室、学習塾に通わせている親がいますが、車での送り迎えが多いように思います。車を使わずに足を利用させるべきだと考えます。足を使えば健康維持や増進になるばかりでなく、脳の働きの強化に大いに役立つことは医学的にも、経験上からも十分に証明されているからです。

指を使うこと、手首を使うことも足と同じように重要なことです。日本人は手先が器用で脳の働きがよいのも、幼児のころから箸を用いてきたからだと言われています。もちろん箸の使用がそのすべての要因ではないにしても、箸の使用と脳の発達とは切れない関係にあるというのが常識的な考えになっています。精密機器が日本で発達したのは箸の利用と欠かせない因果関係にあると世界の人たちからも見られているのです。」

「子どもは野山を走り、石ころとか木ぎれを手にして遊びまわれることが重要なのです。子ども時代の身体も脳も精神も高められ伸びる時に、家の中でおとなしく閉じこもっているようでは将来はあかるくなる可能性が少ないのです。」(宇佐美覚了著・前掲書・81~82ページ)

私の世代が小中学生のころは、今のほとんどの子どもたちが持っているゲーム機・スマホ・i-pad・タブレット端末など、コンピューター機器などまったくありませんでした。遊びと言えば、野原でかけまわっておにごっこ・かくれんぼ・かんけり・秘密基地つくりなどの冒険ごっこ・小枝や古ハリガネなどで自分で使ったパチンコなどでした。室内でのちょっと精巧なものとしては、マッチ棒・割りばし・角材などで、船・東京タワー・お城のミニチュア・レプリカ作りでした。ハサミを初め、ナイフ・カッターなどで時折失敗して手を切ったりしながら、そうした経験によってこそ危険を避ける安全なナイフの使い方を自ら体得していったのです。

やけどを一度もしたことのない人はいないように、失敗も、生活上必要なことは何度も体験することによって学び、器用さ・技能・安全性を身に着けていくんですよね。

<できるだけ手助けをしない>

「小学生になっても服を着たり、靴をはいたりすることまで手とり足とりの世話をし過ぎると、頭で考え、自分の意思で行動できない軟弱な子どもになり、その習慣や考え方が大人になっても残り社会人として役に立たない人間になってしまうのです。

それぞれの生活の局面で子どもなりに考え、工夫し、行動することから人間として生きる知恵とか習慣が身についてくるのです。そういった意味で、小さな子どもが母親の手を借りて服装をきちんと身につけているよりも、少し格好がよくなくとも、自分で服を着たほうが子どもの将来のためになるのです。」(宇佐見覚了氏・前掲書・75~76頁)

今回のタイトルも、汐見稔幸氏の『ほめない子育て』のように、逆説的に聞こえるフレーズですが、宇佐美氏の持論を丁寧に読むと、なるほどと納得させられますよね。多くの子どもたちを観ていると、それぞれ個性・特性・個人差が少なからずあって、何才までに○○ができていなくてはならない、という絶対的な基準・ルートがあるわけではありませんし、子どもをじっくりと観察し、今はこの子はこれくらいのことができるんだな、と確認していくことは、やはり保護者・保育者としては基本的に必要な務め・要件なのでしょう。

よく話題にされるのは、子どもを十分に「甘えさせる」ことは大切であり、「甘やかす」ことは慎むべきだ、と言われ、では両者の違いは何だろうか?という問題です。これに対する返答を、ごくシンプル・率直に表現するならば、子どもの現状・人格を丸ごと受容し十分に愛することが「甘えさせる」ことで、子どもができることとできないことを明確に見極めず子どもができることまで大人がやってしまう、という子どもべったりの「猫っ可愛がり」が「甘やかす」ことなのでしょう。

幼少の子どもほど、毎日毎日が確実に一歩一歩の成長を見せます。時には、「赤ちゃん返り」のように多少の「後退」と見える場合もありますが、長い目で見れば、成長は目覚ましいもの、と言えるでしょう。長ずるにつれだんだんに自立し親の手を離れていく印象を受け、少し寂しい気持ちにもなりますが、これもまた親の宿命なのでしょうね。