これまで、教育・保育のいろいろな課題・問題を取り上げて、専門的な知識・情報を紹介し、また私なりの意見も述べてきましたが、今回は、そうしたテーマからは少し離れて、一般的な社会課題に触れたいと思います。
梅雨や台風の季節になり、全国あちこちで「線状降水帯」による水害が起きています。岐阜市黒野近隣でも、過去(昭和51年)に「9.12豪雨」と呼ばれる大水害があり、私も身をもって経験しました。その時の状況を皆さんにも知っていただき、できる限り「自分で自分の身の安全を守る」ために役立てていただきたいと思います。
昭和51年のこの災害の時、私は中学3年生でした。
8月下旬から、台風の動きが停滞し、大雨が続きました。後からの情報ですが、このあたりの年間総雨量が1900ミリのところ、この数日でその半分ほどの900ミリの降雨があったそうです。
9月上旬、私は柳津の聖徳学園附属中学まで自転車で通っていましたが、旧河渡(こうど)橋(ばし)を渡るとき、すぐ下を茶色の濁流が流れ、自転車で走りながらも橋が壊れそうなくらいで怖かった覚えがあります。
だんだん水が出始め、学校へも行けなくなり、交通網も遮断され、次第に水が増えていきました。後からの噂では、岩利か石谷あたりの伊自良川の堤防が切れて水が出たらしいと聞きました。黒野校区は南半分全部(南町・折立全般)浸水しました。旧十六銀行黒野支店のあたり(仲町)が「岸」でした。
当時のわが家や光順寺本堂は、床板に水がぎりぎりつくくらい浸水しました。
わが家は当時二階がなかったので、父と私とで、母屋の一階と本堂の畳(本堂だけで70畳)や濡れてはいけないものを机などの少しでも高いところに上げ、三日三晩くらいろくに寝ずに作業し、ふらふらになりました。自家用車・幼稚園バスは父が城田寺の山ぎわの知り合いの駐車場(自動車修理屋さん・「豊和(ほうわ)オート」)に避難させたらしいです。
黒野あそか苑前(旧黒野別院駐車場)で、最高水深1.2mくらいありました。
柿が瀬に水深2mを越えたことを示す標識があります。(水深226㎝「北柿が瀬北交差点」) 南町や折立は一階床上2mくらいの浸水状態なので、多くの家の(泥)壁は水で溶けて落ちました。今でも古い家は柱にその跡が残っています。電話も全く不通でした。(電話線が床下を通っており、水についたから) 車も一切行き来しないので、文字通り水を打ったような静けさが続きました。
PS:後掲の写真は、旧黒野別院(現黒野あそか苑)駐車場・幼稚園グランドで私・姉が映っていますが、父が撮影したものです。まだ30㎝くらいしか水が出ていませんが、この後1mくらいまで上がりました。