当時うちの本宅には二階がなかったので、幼稚園舎二階の一室で寝泊まりし、(1週間ほど)隣のフードセンターで買いだめしたカップラーメンばかり食べていました。
携帯電話もインターネットもない時代で、今のようにフットワークよく取材・報道がなされるということがない時期で、ラジオくらいしか情報手段はありません。テレビも、寝泊りする部屋に運んで設置する余裕もなく、ほとんど見た覚えはないです。一通り対策を打った後は、水位が上がるのが止まってからはひまでした。父と古木材・釘を使っていかだを作って浮かばせて、町内を一周したりしました。そのときあそか苑の辺りですべって落ちましたが、水が首までありました。(そのころすでに私は身長160センチほどあったので、水深130センチくらいだと思います。) 汚い話しですが、トイレも全て外へたれながし状態だったので、もう少しこの状態が続いたら、9月上旬の話なので、何らかの中毒・感染症が流行(はや)ったかもしれません。いつ水が引くか分からない怖い思いがあったのでしょう、私はある夜、寝ている布団まで水が来た夢を見ました。
そんな中、9月12日、長良川・墨俣付近の堤防が決壊したことをきっかけとして、それまで黒野地区にどっぷりとたまっていた大水が、みるみる一気に引いていきました。その意味で、9.12とは、視点を変えれば、黒野が救われた日である、と見ることもできます。
水が引いた後は、水につかった部屋を水道ホースをのばして洗って家族や関係者総出で掃除しました。床下も父がたたみ下の床板を外し、地面に石灰などを巻いて消毒やシロアリ対策などをしていたようです。通っていた中学で、先生から調査・質問されたり、学校から見舞金のようなものがなにがしかあったと記憶していますが、行政からの災害復旧支援金などの確かなことは子どもだったので全くわかりません。
私の記憶していることはだいたい以上です。
あの災害以来、堤防もかなり強化されて、あのような災害はめったに起こらないとは思いますが、絶対に起こらないとは言えないと思います。台風の時季には常に台風の動きに注視し早めに対策をとることが大切だと思います。
<今後の対策・心がけについて>
今考えられることは、以下のことです。
〇普段から、天気予報をまめに見る・確認する。(テレビ・新聞・ネットなど)(前例で実証されて分かったが、黒野地区内を流れる河川の水は、岐阜市奥や、伊自良村あたりへ降った雨がもとなので、そういった上流の地区の降水量を特にチェックしておく。)
〇地域のハザードマップなどをチェックし、災害可能性をあらかじめ探り、知っておく。
〇地域(町内)放送も注意して聞く。
〇緊急持ち出し袋(くつ・タオル・ティッシュ・薬・雨具など)を用意しておく。
〇貴重品や水につかっては台無しになるもの(ふとん・畳など)などは、優先性の高いものから、机や棚の上か、2階(以上)など、できるだけ高い位置に保管する。
〇避難の心がけ・決断を早めにする。
参考資料:「黒野広報」1976年10月1日版 黒野広報会連合会発行