<「ほめる」と「しかる」のバランス>

「しかる」より「ほめる」方を多くしたほうが、子どもの自己肯定感を育む、ということは、よく言われますが、具体的に両者の望ましい割合・頻度・回数の基準・理想が決まっているわけではありません。きわめて多様な生身の人間と人間との関りが教育ですから、毎日試行錯誤しながら進めるものですが、相手への善意の思いやりが失敗することもしばしばあります。こうした指導が行われるときの基本的な留意点について、専門家の意見を聞いてみましょう。

①指示の明確さ

「ことばによって、子どもの行動にいろいろの指示をするという場合、基本的に必要なことは、その指示が明瞭であり、適確であるということであろう。」「子どもに何か言うときには、そのことが子どもによくわかるように言うことである。よくわかる、やさしいことばで言うべきである。」(『家庭教育』山下俊郎著・光生館1965・111~112頁)

よく聞かれる「しっかりしなさい!」は、もっともあいまいな叱り言葉の一つでしょうね。反省したいものです。人格を叱るのではなく、のぞましくない行為・「こと」を指摘すべきなのですね。

 

②タイミングの大切さ

「行為の進行中、あるいは直後に与えられてこそ、賞罰はその意義をもち得るものである。」(前掲書・115頁)

「しつけの根底には、「この子をなんとか社会に適応させたい」という子どもへの思いやりがあるはず。守れたらすぐにほめる。そういう、ほめられた達成感が積み重なって、子どもの中にしつけは定着するのです。」(はじめて出会う育児の百科)汐見稔幸他著・小学館2003・684頁)

決して思いつき・衝動的にならず、冷静に「どうしても伝えなくてはいけないな」と判断したときに、機を逸することなくていねいに諭していく、といった姿勢が大事なのでしょう。

 

本ブログの最初のほうで縷々述べました「人間的な愛情表現」を基礎にしながら、上の点について注意しながら指示・方向付けを進めていって、人間関係における信頼感・相互尊重を積み重ねていきたいものです。

次回は、新聞等で紹介された「ほめる達人」たちのお話を紹介します。お楽しみに!

<「叱(しか)る」と「怒(おこ)る」>

子どもたちとの生活の中では、身体や命の危険を予感させる行為・事態に出会ったり、約束をやぶってしまったり、などということの多い中、つい厳しい口調で子どもたちを叱ったり怒ったりしてしまう・しなければならないことも多くあるかと思います。あわただしい生活の中では、ついカッと感情的に怒ってしまうことも、保護者・保育者ならば少なからず経験することがあると思います。

子どもの心の発育にとって望ましい「叱り方」を考えてみましょう。

〈叱り方の注意点〉

これまでも、さまざまな教育専門家が、叱り方についてオーソドックスな見解を表明しています。整理すると、以下の4点ほどにまとめられるようです。

①「叱り方は、まず簡潔直截(ちょくせつ)であることが必要である。長ったらしいお説教は、幼児が何のために叱られているかを忘れ、やや年長の児童になると聞きあきて、ただ聞き流して無視するという結果になってしまう。長談義はやめるべきで、いわゆるピリッとした、簡潔で、最小限度の叱り方であるべきである。」(『家庭教育』山下俊郎著・光生館・1965・118頁) 要点のみをスパッと言って、すぐに普段の平穏な日常に戻ることが大切なのでしょうね。私も児童・生徒時代に、ある先生がガツンと怒ったが、言いたいことだけ言って、スパッと切り替えて平生(へいぜい)の調子で授業をされて、けじめのある気持ちいい姿勢だな、と思った経験があります。

②「また、叱るということは、おどかしであってはならない。ゆうれいが出る、おばけが出るといって、おどかしをもって子どもを操縦するやり方が、わたくしたちの身のまわりに見られた前近代的なしつけ方であった。これは反省さるべきことである。」(前掲書)

「「そんなことをする子はもう知らない」とか「もう家(うち)の子じゃない」など、見捨てられるなどの不安を強める叱り文句をつかってはならない。」(岐阜新聞1989年7月17日・立正大学短期大学部教授・野田幸江)

③子どもの人格全体を否定するのではなく、間違った行動を改めさせるように導く必要があります。「あんたは何をやってもうまくできないねえ。」などとついつい言ってしまいがちですが、これでは子どものプライドも傷つけてしまいます。「子どもにも子どもの言い分がある。是非をはっきりさせるためだけに子どもの言い分を聞くのではなく、子どもには言い分を聞いてもらえたという満足感を与え、親の言い分も素直に聞ける心のゆとりをもたらすはずだ。」(前掲野田幸江論稿)

④「この子どもの、今の行動をしかっていいかどうかは、その子どもの日常生活にもっとも近く、その子どもの記憶と判断とを知っている親が即興的に決定すべきことである。それは直観と決断とを必要とする点で芸術に似ている。人間の生きる知恵というのは、日々の生活の不確定の中で決断をくりかえしていくことにある。」(『幼年期・家庭の教育2』岩波書店・松田道雄・1966・237頁) 極めて多様な人間性・人間関係の中での日々変容する人間の関りには、絶対的・客観的な基準・処方箋(しょほうせん)はなく、互いの気持ち・主観を謙虚にふりかえる中で瞬時瞬時に決断していかなければならないものなのですね。

 

子ども教育における「叱り方」の問題には、密接にかかわる「褒め方」の問題と並行して考える必要があると思われます。次回で考えてみましょう。

<いじめについて>

小学校・中学校など、多くの児童・生徒が継続的・定期的に集まる集団・団体・組織・場の中では、古今東西・老若男女を問わず、いじめが起きる可能性を秘めている、と言ってもいいでしょう。これは、職場・地域社会のサークルなどの大人の社会でも同じです。昨今、子どもたちの社会でいじめや居場所のなさなどから、子どもの自殺事件がしばしば起こっており、親世代を心配させていますので、少し腰を据えてこの問題について考えてみましょう。

私自身、一過性ではありましたが、小学校中学年のころ(4年生)、特定のいじめ首謀者(ガキ大将)によるいじめに遭い、とても悲しい思いをしました。また、中学生のときにも、自分が標的にこそなりませんでしたが、所属するクラスや、他のクラスなどでいじめの実態と思われる事実を見聞きしたこともあります。(今から50年前のことです。)昔から、いじめは常に起こっていたのです。

いじめには、心理的ないじめ(暴言・悪口・陰口・嫌み・シカトなど)・生理的ないじめ(暴力・体罰など)・物理的ないじめ(所有物を隠す・ゆすり・たかりなど)など多種多様なものがありますが、いずれにしても当事者に深い悲しみをもたらし、被害者の自尊感情・安心感を奪い取っていき、「自分は生きていてもしょうがない」と思うほど自暴自棄の心境に陥っていきます。

こうした状況にならないためにも、できる限り早く本人・周囲の関係者・仲間が気づき、対策をしっかりと皆で考え実行する、という他に方策はないでしょう。

教育学者・芹沢俊介(せりざわしゅんすけ)氏は、「親や教員が、いじめという参加型集団暴力に自己保身から加担してしまう、といった人間的な弱さを持ち合わせているという自覚は、いじめを自分事として取り組む姿勢を生みだす基盤になるのである。」「親や教員として、こうした知識・姿勢を、日々、子どもたちの世界との関連において、具体的に示し続けることである。」「教員が日頃、子どもたちとの信頼関係が築けているなら、いじめは起き難いし、起きても介入はすばやく容易であろう。」と述べています。(『養育事典』芹沢俊介他著・明石書店・2014・P63~74)

また仏教では、どんな人間でも(医者・警察官・弁護士・教員・大臣・大統領・社長・僧侶など)、欲や怒り・自己中心の心を持ち合わせている、と説きます。これを「三毒の煩悩(ぼんのう)」と言います。

  • 貪欲(とんよく):金や物の欲・なまけ欲・名誉欲・性欲・食欲を、どこまでも追求し続けること
  • 瞋恚(しんに):他者をねたみ・うらみ、陰に陽に攻撃すること
  • 愚痴(ぐち):①②という自己の現実に気づかず・自己コントロールできず、社会生活において暴走させてしまうこと

これが人間の真相である、と仏教・お釈迦さまは喝破(かっぱ)したのです。しかし、これがわれわれ人間の真実であるが、そうかと言ってそれをそのまま野放し・放任・放置するのではなく、こうした人間の真実を知ってそこから仏さまのことばを聞くことにより社会生活においては煩悩をセルフコントロールできるような能力を身に着けていくことは、いじめなどの出来事に打ち負かされないために大切・必要なことでしょう。

現実の生活の中でどうしてもそのような事態に陥りそうになったときは、信頼できる仲間・知人に相談したり、以下の公共の相談窓口があります。遠慮・躊躇しないで相談しましょう。

  • 岐阜県教育委員会「子どもSOS24」TEL0120―0-78310
  • 岐阜県教育委員会「教育相談ほほえみダイヤル」TEL0120-745-070
  • 岐阜県教育委員会 学校安全課 教育相談係 TEL058-271-3328
  • 岐阜県青少年SOSセンター TEL0120-247-505
  • 岐阜県こころのダイヤル119番 TEL058-233―0119
  • 警察本部少年サポートセンター TEL0120-783-800
  • 岐阜県子ども・家庭電話相談室 TEL0120-76-1152 058-213-8080
  • 子どもの人権110番 TEL0120-007-110

子どもはどのように学ぶか? ~発達の最近接領域(さいきんせつりょういき)~

子どもは、家庭生活・社会生活・学校生活の中で、人類がこれまで永い年月をかけて蓄積してきた文化を一つ一つ身に着けていくことにより、成長・発達していきます。
その際に、遊びでも学習でも、自分一人ですぐにできる範囲・レベルからさらに一歩レベルアップした課題でも、周囲の大人の援助とか、子どもたち同士の共同の中でなら、できるようになる、ということがあります。このレベル・範囲のことを、ソヴィエト連邦(現ロシア)の心理学者ヴィゴツキー(1896年~1934年)は「発達の最近接領域」と呼び、きわめて多様・個性的な子どもたちが、それぞれ自己固有の「領域」を持ち合わせており、そこにこそ教育の最大の意識を注ぐべきだ、と主張しました。
現在の子どもたちは、これまでの乳幼児期からのさまざまな成育歴により、特性・特徴・興味関心・能力等において一人として同じではなく、きわめて多様です。社会・集団生活の中での学び合い・教え合いをふんだんに積み重ねることにより、健やかな成長・発達を成しとげていくことを、ヴィゴツキーの説から学ぶことができます。「発達の最近接領域」ということばは、教育心理学の専門用語で、日常はあまり聞かないことばですが、幼児・児童をもつごく普通の親としても、子ども理解を深める一説として念頭に置いておくとよいことばでしょう。
この説の本意をごく平易なことばで言うなら、少し難しい学習課題について先生や友だちとわかるまでとことん十分・自由に話し合いましょう、ということです。学習成果をあげるために一人で長い時間かけているよりも集団・社会関係の中での方が、より効果的で貴重な学びが得られることを強調したいのだと思います。

(参考文献『現代教育学の基礎知識(1)』中内敏夫他編・有斐閣ブックス1976)

親子関係・家族関係って何?

最近出逢った本で、仏教(浄土真宗)的に望ましい・理想・目標とすべき人間関係・親子関係をどう考えたらよいか、ということについて大変感銘を受けた文章がありました。「私たちの身近な人間関係には、夫婦関係や親子関係がありますが、この中にも利害関係が入りやすいものです。親にしてみれば、今、子の機嫌を損じると将来面倒を見てもらえない、と考えたり、子にしてみれば、親の機嫌を損ねると財産がもらえないかもしれない、などと考えたりしがちです。」「親が子どもに対して親の権利を主張すると、親子関係は不純になっていくと思います。子はどこまでも自分に対して恵まれた存在であるという思いがあると、親と子でありながら親友の関係ではないでしょうか。」「何も遠慮がない純粋な人間関係のことを親友と言うのでしょう。」(『招喚する真理』大峯顕著・本願寺出版社2011・57~58頁)
親友とは何でしょう? 私は次の3点を満たす人間関係だと思います。
①相性が合い、お互いの魅力にひかれあうこと
②打算がなく、対等にお互いの人格・人間性(性格・能力・考え・嗜好など)を尊重し合えること
③時には耳の痛い忠告をも、勇気をもって言い合えること

宝物のように思うわが子に対し、幼少のころは人生の先輩として世の中の基本的な最小限のルールを教えるなどの責任は果たしていかなければなりませんが、さらに深いレベルでは、お互い一人の独立した人間同士の尊重し合い学び合う姿勢が大切なのでしょう。指導意識が高じるあまり出てきてしまう上下意識(利用・支配・打算・管理・操作・過干渉)はきっぱりと捨てて純粋に子どもとのつきあいを楽しむ、という心がけが大切なのでしょうね。