『この一言で子どもがグングン伸びる』(宇佐美覚了(うさみかくりょう)著・海越出版社・1989)を読む

本欄前回まで3回ほど、汐見稔幸氏『ほめない子育て』によって、子どもへのどんな声掛けが望ましいかを考えてきましたが、私の本棚に上記の本がありふっとタイトルが目に留まったので、あらためて読んでみました。これまで子どもの知力・学ぶ意欲・ことば育てについて2年ほど前にも20回ほど続けていろいろな知見を紹介しましたが、今回の本も、著者ならではの見解・具体例も述べられていますので、ご紹介しながら子育てについて考えてみましょう。

この本は1989年(平成元年)出版なので、主に昭和後期の教育事情を踏まえていますが、令和の現代もかなり共通の問題・子育て親の悩みもあると思います。

宇佐美覚了氏は、まず現代の子育て・教育の諸問題として、不登校・三無主義(無気力・無関心・無感動)・校内暴力・家庭内暴力・非行・自殺などが頻繁に報道される中でそれらを深く憂慮(ゆうりょ)され、教育現場でも多く保護者からの相談に乗って考える中で、これらの問題の多くは、学校教育におとらず家庭の教育をちょっとあらためるだけでかなり減少するのではないか、と提言されています。

以前にもいろいろな視点から家庭教育の課題・問題の原因を考えてきましたが、やはりいくつかの柱に整理できるようです。

  • 過干渉・管理・支配
  • 過度の心配性
  • 過保護(甘やかし):子どもが自分でなんとかできることも、保護者が先取りしてやってしまう
  • 過服従(子の言いなりになる)
  • 過度の期待
  • 無関心・無視・拒否・完全放任(育児放棄)・愛情飢餓

これらの言葉は、たいへん極端に聞こえますが、保護者が何気なく言った言葉でも、子どもは傷つくこともあり、冷静に反省する必要があります。

子どもも成長途上の独立した一人格であり、人権を尊重されなければならない存在であります。次回には、具体的にどんな状況で、どんな言葉がけをすればいいか?という問題について考えていきましょう。

<自己主張・個性・自己肯定感>

本欄の前2回で紹介・解説してきた汐見稔幸著『ほめない子育て』の第3章・第5章では、氏の全体のまとめ・結論的な主張として、これからの国際化(グローバル)社会で自己主張・個性を大切に育み展開していくことの重要さを述べています。

汐見氏は昭和22年生まれで、お母さま・お祖母さまがそれぞれ大正・明治生まれの影響でしょう、明治以来今日までの近代日本の劇的な変動により教育・保育の状況・環境もかなり変容してきてこのことが子どもの育ちに多くの影響を及ぼしてきている、という問題意識が氏の教育論の根底にあります。

前々回の本欄でもそうした教育事情の変化を、4点ほどにまとめて概観しましたが、戦後日本の高度経済成長以前の日本の子育て事情は、氏は「放し飼いの子育て」だったと観ています。今のように買ってきてすぐに食べられるお惣菜を売っているコンビニ・スーパーもないし、今では当たり前のような掃除機・洗濯機・炊飯器・湯沸かし器などの家電もなかった時代には、家事(買い物・料理・掃除・洗濯)・畑仕事・育児・近所づきあいなど、主婦にまかせられる執務で、一日14時間半働いたと言われています。そんな忙しい毎日では、7~8人兄弟姉妹が珍しくないという大勢の子どもと一緒にじっくり過ごす時間などありませんから、大勢の兄弟・近所の友だち同士で遊ばせたり、長子に乳幼児の子守をさせるなど、子どもたちの集団活動・生活・自治的社会が自然に発生し機能していました。

ですから、家庭では家長たるお父さん(またはお祖父さん)が、デーンと威厳をもってかまえていて、地域社会や家庭の道徳・価値観をみなに教育していたことから、子どもたちは少なからず窮屈な思いも持っていましたが、「お母さんやお父さんの前では「よい子」を演じてみせても、地域社会に出たときに自分らしくふるまい、息抜きをすることができたのです。親が知らないところで、隠れ家に隠れて冒険したり、いたずらしたりしながら友だちといっしょに思い切り自己主張することができたわけです。そうやって子どもなりに、うまくバランスをとっていたと考えられます。」(同書136ページ)

今日の「お母さん、お父さんも子どもを小さいうちからある枠にはめ込もうとするのではなく、なるべくのびのびと探索活動ができ、思う存分自己主張ができるような環境を与えてやることが大切なのです。」(同書138ページ)

確かに戦前は、旧憲法のもと、確固たる道徳的価値観が上(国家)から地域社会に強力に降りてくる上意(じょうい)下達(かたつ)社会ではありましたから、日本人の特徴的な性格として、「世間様に申し訳が立つように」生活し子どもを教育しようとする傾向がいまだに強く残っていますが、まったく逆に、ほんの300年くらいしか歴史がなく我が国の歴史はこれから自分たちが作るんだ、という気概からすべてが出発しているアメリカなどでは、「皆と同じように、横並びに」ではなく、皆とは違う自分だけの個性を持ち発揮していくことが最善とされるようです。

大勢の友人・知人や大人たちと交流すれば、人はみな一人として同じ人はなく、性格・好み・考え方・感じ方が大きく違うものである、と知るものです。ここから出発して、「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)の境地に達するのがこれからの国際(グローバル)化社会時代を生き生きとたくましく生き抜いていく哲学である、と氏は主張されるようです。

<父親の子育て参画について>

前回ご紹介した汐見稔幸氏の著書『ほめない子育て』には、「父親の子育て参画」という話題も述べられています。この問題について今回は考えてみましょう。

氏は、まずは昭和以来の父親の子育て参加事情について、ざっとふりかえっています。第二次世界大戦前の時代は、「家父長制度」の名残りで父親は、家庭(の近く)で仕事に専念して家計を支え、家庭の中ではどっしりと威厳をもって存在し、細かな子育て作業には基本的にかかわらず、ときどき子どもの進路決定などのおおまか・重要な課題にのみ有力な意見を言うだけであったようです。

そして終戦後は、復興期から高度経済成長期にかけて、男親は「企業戦士」としてガンガン働き、家事・子育てにはほとんど時間的にも精神的にもノータッチでよしとされていました。

しかし、昭和の末期ごろ(昭和60年ころ)から増えてきた子どものいじめ・不登校・自死といった社会問題の学術的な調査・分析が進んでいくと、そこには「父親の存在」がないことの気づき・指摘が出てきました。結婚家族内でも母親のみの今で言う「ワンオペ育児」の状態が多く、母親一人が悩み・苦労しながら子育てしている姿が浮き彫りになってきたのです。

そのころから、汐見氏らが先陣を切って、「父親の子育て参画」を訴えて来られました。汐見氏は、多くの著書やテレビ子育て番組や『父子手帳』という本を作成したりして、父親もできる範囲で大いに子育てに参加した方が、子どもは幸せに・健全に育っていくのだ、という教育論を展開していきました。幼少時から子どもは、お母さんはもちろんのこと、お父さんやお祖父さんお祖母さんその他さまざま多様な人格に愛され関りを持った方が、幅広い人格を形成していくのだ、と言うのです。

また汐見氏は、「父性文化と母性文化をバランスよく展開して!」ということをおっしゃいます。「父性文化」とは、木登り・石ころ集めコレクション・「高い高い!」遊びといったダイナミック・ワイルドな刺激・冒険・挑戦を子育てに盛り込んだものであり、これに対し「母性文化」は、転んだり友だちとぶつかったりして痛い思いをしたとき、優しく包み込み共感し安らかに慰めてくれる心性・保育文化のことです。この両者がバランスよく混ざったり交互に繰り返されたりして多様な育児環境・生活が展開されることが乳幼児の成育にはとても大切である、と訴えられます。(前掲書・第4章 お父さんの育児参加・141~176頁)

お父さんお母さんも、夫婦とは言えもともと別人格ですから、考え方・感じ方・好み・興味関心には少なからず違いがあり、子どもへのまなざし・見方も違うし、保育・教育観にも違いがあるものです。その両者が好意的・協力的に話し合いを重ねて、両者の良い所を生かしながら子どもに良い影響を与えていく、というのが望ましい保育・家庭教育なのでしょう。

最後に私なりの意見・知識もつけ加えますと、「ベテランの小学校の先生は、子どもを見たり少しつき合うだけで、その子の家庭(の近く)に祖父母がいるかどうかすぐわかる」という話を聞きました。それほど普段の家庭生活が子どもに与える影響は大きいということなのでしょうね。

<汐見稔幸氏著『ほめない子育て』(1997・EIKOU社刊)について>

幼児教育研究の第一人者である汐見稔幸氏が、一見「んん!??」と思う題名の本を、20数年ほど前ですが出していらっしゃいます。子どもの良いところを見つけほめて育てるのが誰しも良い子育てだろうと思うでしょうし、本欄でも1年半ほど前に「しかるとほめる」のテーマについて縷々述べていますが、汐見氏は逆説的な表現をしています。この本をじっくり読んで氏の言いたいことの真意・本意をさぐって私なりにまとめてみますと、現代日本の子育て事情の特徴として、

①一夫婦・家庭での兄弟・姉妹の数が少なくなり、一人っ子か二人兄弟が多い。

②高度経済成長による都市化を背景に、野山・原っぱ・空き地が身近に見当たらなくなり、子どもの自由奔放な冒険心を満たす安全・自然な遊び場がなくなっていった。

③教育産業の発達により、学習塾・スポーツクラブ(野球・サッカー・水泳・ダンススクール・スケートなど)・音楽教室(オルガン・ピアノ・エレクトーン・ヴァイオリンなど)などの習い事の機会が増えた。

④「隣は何をする人ぞ」の言い回しのように、地域社会でのゆるやかな交わりが衰退し、仲の良い友だちと放課後は毎日のように遊んだり地域の大人にいたずらを叱られたり、といった地域の教育機能が衰えた。

こうした中で、親の構想・夢が先走りして、親の思うレールの上で子どもを走らせるために、過剰に「ほめる」「モデルとなる子をほめる」・やってほしくない行為を「しかる」ことが増えてきている、ということに警鐘を鳴らしているようです。

汐見氏のことばとしては、

「私はほめるということは、子どもの行為に共感するという程度ならよいと思いますが、不必要にほめたり、大げさにほめたりすることを続けていくと逆効果になると考えています。つめり、ほめ過ぎる子育ては、子どもの自己肯定感を逆に弱めてしまうと思うのです。それは端的にいうと、子どもを人の評価に敏感な子どもにしてしまうからです。」(上掲書・26~27ページ)

「自分が好きなことを一生懸命やっていることをお母さんが認めてくれているという関係が子どもを意欲的にしていくのです。子どもがやっていることを、遠くから温かく見守り、うなずき、認めて、失敗はフォローする。この姿勢が、親や保育者に必要なのだと思うのです。」(上掲書・44ページ)

保育者・保護者は、子どもへの愛情や責任感・メンツも高じてついつい子どもをレールに乗せて管理・コントロールしがちですが、これは百害あるということですね。子どもを決して上から目線ではなく、自分とは別人格として並行目線で見守り支援してあげることが大切なのですね。

<歩きスマホは極力やめましょう>

商店街や通勤で歩くときに、ついついスマホのメール・ラインを操作したり、魅力ある画像やゲームに見入ってしまったりしがちな方が多いようですが、他の歩行者・自転車や電柱・看板・立ち木等にぶつかってしまったりして、とても危険です。

その他にも、歩きながらスマホを操作すると、脳の情報処理能力が低下し歩行のリズムが乱れることを、京都大学の医工情報学チーム(野村泰伸教授)が実験で証明しました。

実験では、44人の健康な男女(平均22.6才)全員に、ルームランナー上で、

①何も持たずに歩く

②画面が移っていないスマホを見つめながら歩く

③スマホでゲームをしながら歩く

の3種類をやってもらいました。

通常私たちは歩くとき、1歩のストライドは連続して同じ歩幅を繰り返し、長く歩き続けるとこのストライドが少しずつ長くなったり短くなったりを長い周期で繰り返す、という「ゆらぎ」があるそうですが、スマホに夢中になりながら歩く(上の③)とこの「ゆらぎ」がなくなり、歩行の安定性が明らかに低下したそうです。これは、スマホ操作の方に脳の情報処理リソース(資源)が割かれることが原因と考えられる、という報告です。(岐阜新聞2025年・太田久史氏筆)

スマホがなくてはならない今の時代ではありますが、街を歩いたり野山を歩いたりする時くらいはスマホをしまって、緑や花・遠くの山・空・星・日の出・日の入りなどを眺めて、目を休ませたり喜ばせたりしてみてはいかがでしょう.

昔から多くの高名な哲学者は、歩きながら考える(哲学する)ことを習慣としていました。自分の中にいくつもの深い問いをたくわえつつ、開放的な自然の中で懐深い環境に包まれ自然の風に吹かれながら、思索を深めたようですね。