<「ほめ達」その3・死刑囚・島秋人(しまあきと)の話>

今回は、かなり数奇なお話を述べたいと思います。

島秋人(本名中村覚(さとる))は、1934年北朝鮮生まれ。父は警察官だったが、戦後公職追放に会い、母も病死し、自身も病弱で苦しい生活をしていた。中学卒業後、強盗殺人未遂という刑法犯を犯し、少年院入りとなる。その後も放火・強盗殺人を犯し29才の時、死刑が確定した。

獄中で、静かに自己を振り返るうちに、自分の人生でただ1回、中学1年の担任教師が「絵は下手だが構図が良い。」とほめてくれたことを思い出し、その教師に手紙を送ったことがきっかけで、その教師の妻(吉田絢子さん)が、つらい人生を乗り切るために彼に短歌をすすめ、何度も手紙をやりとりする中で短歌指導を続け、「毎日歌壇」に入選するようになる。控訴の中でも、島秋人への被害者からの「許し」は得られないままに、33才の時に死刑は執行された。数多い短歌を収めて出版された歌集『遺愛集』が増刷・再版を繰り返し、20年間で2万5千部に達した。(読売新聞1996年9月29日記事)

いかがでしょう? 『レ・ミゼラブル』(『ああ無情』)の「ジャン・バルジャン」をほうふつとさせる身近な時代のノンフィクションですよね。人は人生の中で生育環境・きっかけ・因縁のいかんによっては、何をしでかすかもわからない「闇」の部分を誰しも持ち合わせている、ということを感じさせる物語(ストーリー)でありますが、そんな中でも、誰かに生涯でたった一回ほめられたことが、人生の支えや転換起点になるという希望の話でもあります。お金のやりとりや地位・名誉の授受などというレベルをはるかに越えた、人間関係・人生の邂逅(かいこう)(出逢い)という根本問題ですね。

 

<「ほめ達」その2・タレント玉袋筋太郎さん>

玉袋さんは、近年、ギスギスした人間関係が多くなっていることを痛感しているそうです。ごく2~3例をあげると、3メートルしか離れていない友だちにメールしたり、自転車で走行しながら前の歩行者に言葉の代わりに「キー!キー!キー!」とブレーキ音を鳴らしたり、ラーメン店を出るときに「ごちそうさま」も言わない、などです。自著『男子のための人生のルール』(理論社)の中でも、「駅のトイレを掃除している人に「ありがとう」と言うこと。欲しいものを何でも買ってしまうのではなく、我慢した後だからこそ感じられる楽しさを体験して欲しい。一日一日を記憶に焼き付けて遊んでほしいし、人とつきあってほしい。」などと勧めています。特に、思春期の複雑で先の見えない悩みをかかえて自分を見失いそうな中学生たちに、「キミはすごい存在。宝だってことを疑わないで。」と語りかけます。

そして最後に、「親の期待はいくらでも裏切っていい。けど、信頼だけは裏切ってほしくねえな。」と締めくくります。(岐阜新聞2007年5月5日記事)

おとなにとっても新鮮にひびくポジティブ・シンキングですよね。

 

<「ほめ達」(ほめる達人)その1>

「ほめ達」の第一人者は、シドニーオリンピック女子マラソン金メダリスト高橋尚子選手の小出義雄監督です。小出監督が、子育てママ・元教師・運動部コーチらへアドバイスをした以下の語録をまずはお読みください。

子どもの欠点ばかりに目がいって、怒ってばかりの母親に、「細かい所は放っておいて、外で子どもが恥ずかしい思いをするのを待っていればいいんですよ。怒ってばかりでは、うそをつくようになる。あえて失敗させ、自分で学ばせるのが大事。失敗以前に注意するのは子どもが学ぶ芽をつみ取っているんですよ。」(小4の男児の母へ)

「ほめ方もタイミングです。いいことをした瞬間を見逃さずほめる。だから、観察が必要。ただかわいがるだけではだめです。そしてその子に夢を持たせるほめ方がいい。とにかくどんな子でもほめるところはある。」(元教師へ)

「親やコーチのレベルで考えず、子どもの身になって考えること。一緒に遊ぶつもりでやるのもいい。人は十人いたら十人の進み具合がある。そして「認められたい」という気持ちがある、ここをうまく使うことです。」(ラグビーコーチへ)

いかがでしょう? みごとな底抜けのプラス志向と子どもを信じる信念ですよね。
そして、極めつけは、ある相談者(元教師)が「私が走ってもほめてくれますか?」との質問へ、「ああ、絶対ほめる。そのフォームでよくがんばれるな、とか言ってほめる。」というユーモアです。思わず、この指導者にもっと教えてもらいたい!という気持ちになりますよね。

締めはこの一言です。「親の言うように、子どもは育たない。親のやるように子どもは育つ。」(朝日新聞・2000年11月25日)

皆さん、頑張りましょう。(^0^)/

<「ほめる」と「しかる」のバランス>

「しかる」より「ほめる」方を多くしたほうが、子どもの自己肯定感を育む、ということは、よく言われますが、具体的に両者の望ましい割合・頻度・回数の基準・理想が決まっているわけではありません。きわめて多様な生身の人間と人間との関りが教育ですから、毎日試行錯誤しながら進めるものですが、相手への善意の思いやりが失敗することもしばしばあります。こうした指導が行われるときの基本的な留意点について、専門家の意見を聞いてみましょう。

①指示の明確さ

「ことばによって、子どもの行動にいろいろの指示をするという場合、基本的に必要なことは、その指示が明瞭であり、適確であるということであろう。」「子どもに何か言うときには、そのことが子どもによくわかるように言うことである。よくわかる、やさしいことばで言うべきである。」(『家庭教育』山下俊郎著・光生館1965・111~112頁)

よく聞かれる「しっかりしなさい!」は、もっともあいまいな叱り言葉の一つでしょうね。反省したいものです。人格を叱るのではなく、のぞましくない行為・「こと」を指摘すべきなのですね。

 

②タイミングの大切さ

「行為の進行中、あるいは直後に与えられてこそ、賞罰はその意義をもち得るものである。」(前掲書・115頁)

「しつけの根底には、「この子をなんとか社会に適応させたい」という子どもへの思いやりがあるはず。守れたらすぐにほめる。そういう、ほめられた達成感が積み重なって、子どもの中にしつけは定着するのです。」(はじめて出会う育児の百科)汐見稔幸他著・小学館2003・684頁)

決して思いつき・衝動的にならず、冷静に「どうしても伝えなくてはいけないな」と判断したときに、機を逸することなくていねいに諭していく、といった姿勢が大事なのでしょう。

 

本ブログの最初のほうで縷々述べました「人間的な愛情表現」を基礎にしながら、上の点について注意しながら指示・方向付けを進めていって、人間関係における信頼感・相互尊重を積み重ねていきたいものです。

次回は、新聞等で紹介された「ほめる達人」たちのお話を紹介します。お楽しみに!

<「叱(しか)る」と「怒(おこ)る」>

子どもたちとの生活の中では、身体や命の危険を予感させる行為・事態に出会ったり、約束をやぶってしまったり、などということの多い中、つい厳しい口調で子どもたちを叱ったり怒ったりしてしまう・しなければならないことも多くあるかと思います。あわただしい生活の中では、ついカッと感情的に怒ってしまうことも、保護者・保育者ならば少なからず経験することがあると思います。

子どもの心の発育にとって望ましい「叱り方」を考えてみましょう。

〈叱り方の注意点〉

これまでも、さまざまな教育専門家が、叱り方についてオーソドックスな見解を表明しています。整理すると、以下の4点ほどにまとめられるようです。

①「叱り方は、まず簡潔直截(ちょくせつ)であることが必要である。長ったらしいお説教は、幼児が何のために叱られているかを忘れ、やや年長の児童になると聞きあきて、ただ聞き流して無視するという結果になってしまう。長談義はやめるべきで、いわゆるピリッとした、簡潔で、最小限度の叱り方であるべきである。」(『家庭教育』山下俊郎著・光生館・1965・118頁) 要点のみをスパッと言って、すぐに普段の平穏な日常に戻ることが大切なのでしょうね。私も児童・生徒時代に、ある先生がガツンと怒ったが、言いたいことだけ言って、スパッと切り替えて平生(へいぜい)の調子で授業をされて、けじめのある気持ちいい姿勢だな、と思った経験があります。

②「また、叱るということは、おどかしであってはならない。ゆうれいが出る、おばけが出るといって、おどかしをもって子どもを操縦するやり方が、わたくしたちの身のまわりに見られた前近代的なしつけ方であった。これは反省さるべきことである。」(前掲書)

「「そんなことをする子はもう知らない」とか「もう家(うち)の子じゃない」など、見捨てられるなどの不安を強める叱り文句をつかってはならない。」(岐阜新聞1989年7月17日・立正大学短期大学部教授・野田幸江)

③子どもの人格全体を否定するのではなく、間違った行動を改めさせるように導く必要があります。「あんたは何をやってもうまくできないねえ。」などとついつい言ってしまいがちですが、これでは子どものプライドも傷つけてしまいます。「子どもにも子どもの言い分がある。是非をはっきりさせるためだけに子どもの言い分を聞くのではなく、子どもには言い分を聞いてもらえたという満足感を与え、親の言い分も素直に聞ける心のゆとりをもたらすはずだ。」(前掲野田幸江論稿)

④「この子どもの、今の行動をしかっていいかどうかは、その子どもの日常生活にもっとも近く、その子どもの記憶と判断とを知っている親が即興的に決定すべきことである。それは直観と決断とを必要とする点で芸術に似ている。人間の生きる知恵というのは、日々の生活の不確定の中で決断をくりかえしていくことにある。」(『幼年期・家庭の教育2』岩波書店・松田道雄・1966・237頁) 極めて多様な人間性・人間関係の中での日々変容する人間の関りには、絶対的・客観的な基準・処方箋(しょほうせん)はなく、互いの気持ち・主観を謙虚にふりかえる中で瞬時瞬時に決断していかなければならないものなのですね。

 

子ども教育における「叱り方」の問題には、密接にかかわる「褒め方」の問題と並行して考える必要があると思われます。次回で考えてみましょう。