<できるだけ手助けをしない>

「小学生になっても服を着たり、靴をはいたりすることまで手とり足とりの世話をし過ぎると、頭で考え、自分の意思で行動できない軟弱な子どもになり、その習慣や考え方が大人になっても残り社会人として役に立たない人間になってしまうのです。

それぞれの生活の局面で子どもなりに考え、工夫し、行動することから人間として生きる知恵とか習慣が身についてくるのです。そういった意味で、小さな子どもが母親の手を借りて服装をきちんと身につけているよりも、少し格好がよくなくとも、自分で服を着たほうが子どもの将来のためになるのです。」(宇佐見覚了氏・前掲書・75~76頁)

今回のタイトルも、汐見稔幸氏の『ほめない子育て』のように、逆説的に聞こえるフレーズですが、宇佐美氏の持論を丁寧に読むと、なるほどと納得させられますよね。多くの子どもたちを観ていると、それぞれ個性・特性・個人差が少なからずあって、何才までに○○ができていなくてはならない、という絶対的な基準・ルートがあるわけではありませんし、子どもをじっくりと観察し、今はこの子はこれくらいのことができるんだな、と確認していくことは、やはり保護者・保育者としては基本的に必要な務め・要件なのでしょう。

よく話題にされるのは、子どもを十分に「甘えさせる」ことは大切であり、「甘やかす」ことは慎むべきだ、と言われ、では両者の違いは何だろうか?という問題です。これに対する返答を、ごくシンプル・率直に表現するならば、子どもの現状・人格を丸ごと受容し十分に愛することが「甘えさせる」ことで、子どもができることとできないことを明確に見極めず子どもができることまで大人がやってしまう、という子どもべったりの「猫っ可愛がり」が「甘やかす」ことなのでしょう。

幼少の子どもほど、毎日毎日が確実に一歩一歩の成長を見せます。時には、「赤ちゃん返り」のように多少の「後退」と見える場合もありますが、長い目で見れば、成長は目覚ましいもの、と言えるでしょう。長ずるにつれだんだんに自立し親の手を離れていく印象を受け、少し寂しい気持ちにもなりますが、これもまた親の宿命なのでしょうね。

<佐美覚了氏の持論・子どもの長所を見てあげよう>

前回は、子どもに対して最低限守らなければならない「一線」をいくつか述べられていることを紹介しました。

今回は、毎日養育しながらいろいろな課題にぶつかる中で、知っておくととても役立つ基本的な心得をいくつかご紹介します。

①子どもの伸びしろを信じ、子どもの良い所・長所・得意なこと・できるようになった成長に注目し、指摘してあげ惜しみなく褒めてあげる、保護者・保育者が喜んでいることを伝える、ということです。子の欠点は、保護者としてはいろいろと見えてしまい気になるところですが、社会的に大きく迷惑をかけることでなければいちいち目くじら立ててあげつらうのを極力控え、兄弟や他の子と比較して指摘・叱責したり追い立てたりすることも控えることです。

氏は、こう言われます。「母親の愛は、この世のどんな愛よりも無限で純粋なものです。この愛の素晴らしさを、子どもに対して深い配慮をして示したならば、子どもはグングンと伸びていくことはまちがいない現実なのです。」(前掲書65頁)

仏教でも、人・子どもの個性・特徴は千差万別で、単純に比べることはできないし、すべての子がその子ならではの良さ・特徴・個性を持ちグングン発揮していくものだ、と説いています。「赤い花は赤い輝きを放ち、青い花は青い輝きを放ち、黄色い花は黄色い輝きを放ち、白い花は白い輝きを放つ」(『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだ

きょう)』)

『この一言で子どもがグングン伸びる』(宇佐美覚了(うさみかくりょう)著・海越出版社・1989)を読む

本欄前回まで3回ほど、汐見稔幸氏『ほめない子育て』によって、子どもへのどんな声掛けが望ましいかを考えてきましたが、私の本棚に上記の本がありふっとタイトルが目に留まったので、あらためて読んでみました。これまで子どもの知力・学ぶ意欲・ことば育てについて2年ほど前にも20回ほど続けていろいろな知見を紹介しましたが、今回の本も、著者ならではの見解・具体例も述べられていますので、ご紹介しながら子育てについて考えてみましょう。

この本は1989年(平成元年)出版なので、主に昭和後期の教育事情を踏まえていますが、令和の現代もかなり共通の問題・子育て親の悩みもあると思います。

宇佐美覚了氏は、まず現代の子育て・教育の諸問題として、不登校・三無主義(無気力・無関心・無感動)・校内暴力・家庭内暴力・非行・自殺などが頻繁に報道される中でそれらを深く憂慮(ゆうりょ)され、教育現場でも多く保護者からの相談に乗って考える中で、これらの問題の多くは、学校教育におとらず家庭の教育をちょっとあらためるだけでかなり減少するのではないか、と提言されています。

以前にもいろいろな視点から家庭教育の課題・問題の原因を考えてきましたが、やはりいくつかの柱に整理できるようです。

  • 過干渉・管理・支配
  • 過度の心配性
  • 過保護(甘やかし):子どもが自分でなんとかできることも、保護者が先取りしてやってしまう
  • 過服従(子の言いなりになる)
  • 過度の期待
  • 無関心・無視・拒否・完全放任(育児放棄)・愛情飢餓

これらの言葉は、たいへん極端に聞こえますが、保護者が何気なく言った言葉でも、子どもは傷つくこともあり、冷静に反省する必要があります。

子どもも成長途上の独立した一人格であり、人権を尊重されなければならない存在であります。次回には、具体的にどんな状況で、どんな言葉がけをすればいいか?という問題について考えていきましょう。

<自己主張・個性・自己肯定感>

本欄の前2回で紹介・解説してきた汐見稔幸著『ほめない子育て』の第3章・第5章では、氏の全体のまとめ・結論的な主張として、これからの国際化(グローバル)社会で自己主張・個性を大切に育み展開していくことの重要さを述べています。

汐見氏は昭和22年生まれで、お母さま・お祖母さまがそれぞれ大正・明治生まれの影響でしょう、明治以来今日までの近代日本の劇的な変動により教育・保育の状況・環境もかなり変容してきてこのことが子どもの育ちに多くの影響を及ぼしてきている、という問題意識が氏の教育論の根底にあります。

前々回の本欄でもそうした教育事情の変化を、4点ほどにまとめて概観しましたが、戦後日本の高度経済成長以前の日本の子育て事情は、氏は「放し飼いの子育て」だったと観ています。今のように買ってきてすぐに食べられるお惣菜を売っているコンビニ・スーパーもないし、今では当たり前のような掃除機・洗濯機・炊飯器・湯沸かし器などの家電もなかった時代には、家事(買い物・料理・掃除・洗濯)・畑仕事・育児・近所づきあいなど、主婦にまかせられる執務で、一日14時間半働いたと言われています。そんな忙しい毎日では、7~8人兄弟姉妹が珍しくないという大勢の子どもと一緒にじっくり過ごす時間などありませんから、大勢の兄弟・近所の友だち同士で遊ばせたり、長子に乳幼児の子守をさせるなど、子どもたちの集団活動・生活・自治的社会が自然に発生し機能していました。

ですから、家庭では家長たるお父さん(またはお祖父さん)が、デーンと威厳をもってかまえていて、地域社会や家庭の道徳・価値観をみなに教育していたことから、子どもたちは少なからず窮屈な思いも持っていましたが、「お母さんやお父さんの前では「よい子」を演じてみせても、地域社会に出たときに自分らしくふるまい、息抜きをすることができたのです。親が知らないところで、隠れ家に隠れて冒険したり、いたずらしたりしながら友だちといっしょに思い切り自己主張することができたわけです。そうやって子どもなりに、うまくバランスをとっていたと考えられます。」(同書136ページ)

今日の「お母さん、お父さんも子どもを小さいうちからある枠にはめ込もうとするのではなく、なるべくのびのびと探索活動ができ、思う存分自己主張ができるような環境を与えてやることが大切なのです。」(同書138ページ)

確かに戦前は、旧憲法のもと、確固たる道徳的価値観が上(国家)から地域社会に強力に降りてくる上意(じょうい)下達(かたつ)社会ではありましたから、日本人の特徴的な性格として、「世間様に申し訳が立つように」生活し子どもを教育しようとする傾向がいまだに強く残っていますが、まったく逆に、ほんの300年くらいしか歴史がなく我が国の歴史はこれから自分たちが作るんだ、という気概からすべてが出発しているアメリカなどでは、「皆と同じように、横並びに」ではなく、皆とは違う自分だけの個性を持ち発揮していくことが最善とされるようです。

大勢の友人・知人や大人たちと交流すれば、人はみな一人として同じ人はなく、性格・好み・考え方・感じ方が大きく違うものである、と知るものです。ここから出発して、「みんなちがって、みんないい」(金子みすず)の境地に達するのがこれからの国際(グローバル)化社会時代を生き生きとたくましく生き抜いていく哲学である、と氏は主張されるようです。

<父親の子育て参画について>

前回ご紹介した汐見稔幸氏の著書『ほめない子育て』には、「父親の子育て参画」という話題も述べられています。この問題について今回は考えてみましょう。

氏は、まずは昭和以来の父親の子育て参加事情について、ざっとふりかえっています。第二次世界大戦前の時代は、「家父長制度」の名残りで父親は、家庭(の近く)で仕事に専念して家計を支え、家庭の中ではどっしりと威厳をもって存在し、細かな子育て作業には基本的にかかわらず、ときどき子どもの進路決定などのおおまか・重要な課題にのみ有力な意見を言うだけであったようです。

そして終戦後は、復興期から高度経済成長期にかけて、男親は「企業戦士」としてガンガン働き、家事・子育てにはほとんど時間的にも精神的にもノータッチでよしとされていました。

しかし、昭和の末期ごろ(昭和60年ころ)から増えてきた子どものいじめ・不登校・自死といった社会問題の学術的な調査・分析が進んでいくと、そこには「父親の存在」がないことの気づき・指摘が出てきました。結婚家族内でも母親のみの今で言う「ワンオペ育児」の状態が多く、母親一人が悩み・苦労しながら子育てしている姿が浮き彫りになってきたのです。

そのころから、汐見氏らが先陣を切って、「父親の子育て参画」を訴えて来られました。汐見氏は、多くの著書やテレビ子育て番組や『父子手帳』という本を作成したりして、父親もできる範囲で大いに子育てに参加した方が、子どもは幸せに・健全に育っていくのだ、という教育論を展開していきました。幼少時から子どもは、お母さんはもちろんのこと、お父さんやお祖父さんお祖母さんその他さまざま多様な人格に愛され関りを持った方が、幅広い人格を形成していくのだ、と言うのです。

また汐見氏は、「父性文化と母性文化をバランスよく展開して!」ということをおっしゃいます。「父性文化」とは、木登り・石ころ集めコレクション・「高い高い!」遊びといったダイナミック・ワイルドな刺激・冒険・挑戦を子育てに盛り込んだものであり、これに対し「母性文化」は、転んだり友だちとぶつかったりして痛い思いをしたとき、優しく包み込み共感し安らかに慰めてくれる心性・保育文化のことです。この両者がバランスよく混ざったり交互に繰り返されたりして多様な育児環境・生活が展開されることが乳幼児の成育にはとても大切である、と訴えられます。(前掲書・第4章 お父さんの育児参加・141~176頁)

お父さんお母さんも、夫婦とは言えもともと別人格ですから、考え方・感じ方・好み・興味関心には少なからず違いがあり、子どもへのまなざし・見方も違うし、保育・教育観にも違いがあるものです。その両者が好意的・協力的に話し合いを重ねて、両者の良い所を生かしながら子どもに良い影響を与えていく、というのが望ましい保育・家庭教育なのでしょう。

最後に私なりの意見・知識もつけ加えますと、「ベテランの小学校の先生は、子どもを見たり少しつき合うだけで、その子の家庭(の近く)に祖父母がいるかどうかすぐわかる」という話を聞きました。それほど普段の家庭生活が子どもに与える影響は大きいということなのでしょうね。